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北条早雲、2度の地震津波で戦国大名へ治世者の自覚

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宇佐美城(静岡県伊東市)の麓にある宇佐美一族の墓で、「南北朝時代から造営してきた墓(石塔)が15世紀末で途絶えた」と話す金子さん


北条早雲<3>

 北条早雲(伊勢宗瑞そうずい、1456~1519年)が戦国大名となった背景に、「巨大地震津波があった」という説を取り上げる。

 伊豆へ侵攻した早雲は、堀越御所(静岡県伊豆の国市)を落とし、近くに韮山城を築き、居城とした。

 伊豆の拠点を制した年を記した地図を見るとわかる通り、ここで早雲の侵攻は一度止まっている。というのも、これまで紹介したように、早雲の伊豆攻めの目的は、京都の足利将軍から母と弟のあだ討ちを命じられたことだったから、伊豆全体を支配する大義がなかったのだ。

 このときに早雲は、将軍からの命令のほか、おいである駿府城静岡市)の今川氏親うじちか(義元の父)の配下として遠江静岡県西部)へ進軍したり、関東の上杉氏の指示で南関東へ出兵したりしていた。独立性の高い戦国大名ではなく、幕府から派遣された使い勝手の良い武将というのが実態だったようだ。

 早雲は、伊豆平定に1493年から98年までかけている。戦国大名へと変わっていくこの5年間に何があったのか――。

 静岡県伊東市の市史編さん担当主幹の金子浩之さん(56)は「この間、伊豆半島を巨大地震津波が2度襲っています。この天災が早雲の行動になんらかの影響を与えたはずです」と主張する。

 1495年8月15日、相模沖を震源とするプレート境界海溝型の大地震が発生し、巨大な津波が伊豆の東海岸を含む相模湾岸に襲来した。3年後の98年8月25日には、南海トラフ巨大地震津波が東海地方以西の太平洋岸を襲い、伊豆では西海岸を中心に大被害が出た。震源は違うものの、二つの地震はトラフが連動した地震とみられる。

 この間に早雲は、95年に東海岸の鎌田城(伊東市)の伊東氏と宇佐美城(同市)の宇佐美氏を降くだし、98年には半島南端の深根城(下田市)を陥落させて伊豆の平定を終えている。

 実際、金子さんが発掘調査に携わった、宇佐美氏が支配した沿岸集落跡とみられる宇佐美遺跡では、海抜7~8メートルの場所に15世紀末の多数の陶器片などが震災がれきとなって津波堆積物として地層となっていることが判明した。

 壊滅的な被害を受けた地の混乱に乗じて侵攻したということになるのだろうか。金子さんも当初はそれを想定していた。

 ところが、文献史料でみると、1回目の津波の数か月前にはすでに宇佐美、伊東両氏を早雲は降しており、津波は、逆に早雲の新領土を襲ったことがわかった。「津波からの復興を担ったのは早雲だったのです」と金子さんは言う。

 2回目の地震津波では、地震の数日後に深根城を陥落させ、籠城していた女性や子供、僧侶までも惨殺したと書き残されている。

 「海岸から内陸に入った深根城は津波被害を受けず、早雲への抵抗姿勢を崩さなかったのでしょう。その抵抗に対して、早雲の態度は徹底的だったようです」と話す。

 幕府の雇われ武将だった早雲は、震災復興を通して治世者としての自覚が芽生え、戦国大名へと脱皮を果たしたのだ。

 その後、早雲は、伊豆に加え相模(神奈川県)を支配する大大名となった。生涯に2度の津波に“遭遇”した早雲は1519年に韮山城で64歳で死去し、伊豆の修善寺で荼毘だびに付された。「北条氏」を名乗りだした息子の北条氏綱うじつなが伊豆と相模の国境に建てた早雲寺(同県箱根町)の墓に、5代に及ぶ戦国大名として眠っている。(この項、終わり)

(岡本公樹)


東海百城ガイド 

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韮山城静岡県伊豆の国市韮山韮山/秀吉大軍と3か月籠城戦/

 1493年に伊豆に侵攻した北条早雲が本城として築いた。2代目の氏綱が早雲の死後、本城を小田原城(神奈川県小田原市)に移したため、伊豆地方を管轄する支城となった。

 1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは、最前線の戦場となり、4万4000人の秀吉軍に囲まれ、3か月の籠城戦の末に開城した。北条氏滅亡後は、徳川家康に仕える内藤氏に与えられ、関ヶ原の戦い後の1601年には廃城。伊豆には1596年から代官が置かれ、廃城を挟んで韮山代官を務めた江川氏の邸宅が城のある丘陵の麓に現存する。

 石垣はなく、本丸などの中心部には堀や土塁などが良好に残る。城の南方には世界文化遺産韮山反射炉がある。

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 伊豆箱根鉄道韮山駅から徒歩20分。駐車場あり。
2017年07月03日    Copyright © The Yomiuri Shimbun