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稀勢の里が大相撲を日本人の手に戻してくれるという期待への「違和」

静かに広がるナショナリズムの正体

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稀勢の里に寄せられる「快挙」の期待

横綱稀勢の里は、大相撲3月場所の注目を一身に集めてきた。

19年ぶりの「日本出身横綱」となった彼の人気のおかげで、前売り券は15日間分すべてが2時間半で完売した。大阪開催の場所では異例のことだという。

毎日200枚の当日券を求めて、長い列ができた。徹夜までして並ぶ人もいた。テレビのニュース番組では、会場にやって来たファンに「誰を応援しますか」と聞く。人々は決まって答えた。

稀勢の里!」
稀勢の里ですねー」
「やっぱり、稀勢の里

NHK総合大相撲中継の視聴率は、3月20日の今場所9日目に20%の大台に達した。稀勢の里への関心が熱い相撲ファンの枠を越えて、広く浸透していることがうかがえる。

13日目の日馬富士戦では今場所初めて土がついただけでなく、左肩付近を負傷し、救急車で搬送された。ツイッターでは「稀勢の里大丈夫」というフレーズがトレンド入りした。

これだけの関心の裏側にあるのは、長く続いたモンゴル人力士優勢の時代に稀勢の里が風穴を開けてくれるのではないかという期待だろう。

「日本出身横綱」の誕生は1998年の若乃花以来、稀勢の里が優勝すれば「日本出身横綱」としては2001年の貴乃花以来になる(メディアなどが「日本出身横綱」という面倒な言い方をするのは、ハワイ出身の武蔵丸日本国籍を取得したあとの1999年に横綱に昇進しているからだ)。

その「快挙」を願って、人々は稀勢の里を見つめてきた。相撲ファンや以前からの稀勢の里ファンでなくても、稀勢の里が勝つとなぜかうれしくなる。

こういう気持ちを何と呼ぶか。言うまでもない、ナショナリズムだ。

ナショナリズムと言うと、自国のために戦うことも辞さないような熱い感情を表すものと受け取られがちだが、この言葉の意味はそれだけではない。

「日本を愛している」「日本人であることを誇りに思う」という熱い気持ちは、もちろんナショナリズムだ。しかし日本という共同体への帰属意識を持ち、その中で安心を感じることも、ナショナリズムという言葉の意味に含まれる。

ナショナリズムは、自分が「国民」であることを意識する感情も指すのだ。この「静かな」ナショナリズムがなければ、国は国としてまとまらない。

「国技」をふたたび取り戻す

イギリスの社会心理学者マイケル・ビリグは、名著『Banal Nationalism(凡庸なナショナリズム)』の中で、「熱い」ナショナリズムと「静かな」ナショナリズムの区別を明確に規定した。

ビリグの表現を借りるなら、「静かな(凡庸な)」ナショナリズムのイメージは熱い思いとともに打ち振られる国旗ではなく、役所や学校などに日々ひっそり掲げられている国旗だ。

しかし、その目立たない国旗に囲まれて生きる人々は、自然に「国民」としての意識を持つようになる。「静かな」ナショナリズムは強靱で手ごわいと、ビリグは指摘する。

稀勢の里をめぐって日本に漂っているのは、「静かな」ナショナリズムのほうだ。久々の「日本出身横綱」の登場によって、意識するか否かにかかわらず日本という共同体に安心を覚える「稀勢の里ナショナリズム」とでも呼ぶべき空気が広がっている。

なんといっても稀勢の里は、相撲という「国技」を日本人が取り戻したという物語の象徴になりつつある。

〈モンゴル出身力士に乗っ取られそうな「国技」だったが、稀勢の里が出てきたから、もう大丈夫だろう。好調の稀勢の里とは対照的に、3人のモンゴル人横綱には衰えも見える。白鵬は序盤から精彩を欠き、あっさり休場してしまったじゃないか。さて、今日の稀勢の里はどんなふうに勝つのかな……〉

今場所を見てきた多くの日本人の気持ちは、そんなところだったろう。稀勢の里が日本人にもたらしている最大の恩恵は「日本人であることへの安心」だ。

今でこそ平穏な相撲界だが、過去10年あまりの間には、いささか「熱い」ナショナリズムにからむ文化の衝突が相次いだ。

朝青龍「追放劇」を深読みする

たとえば、横綱朝青龍の「追放」劇である。

朝青龍は2002年11月場所に初優勝すると、その後4年間の24場所で、史上初の7連覇を含む18回の優勝を成し遂げ、日本人力士を寄せつけなかった。まさに「朝青龍時代」だった。
だが、そのなかで生まれてきたのが、朝青龍には「横綱の品格」がないという言説だった。勝負がついているのにだめ押しをするなど乱暴に見える取り口や、懸賞金を受け取るときの所作までが批判された。

その後、朝青龍はけがを理由として巡業を休んでいた間にモンゴルでサッカーをやっていたとして、2場所の出場停止処分を受ける。さらには、六本木で泥酔して暴れたと写真週刊誌に報じられた。

朝青龍は泥酔暴行疑惑のあと、横綱審議委員会からの引退勧告書に応じる形で相撲界を去った。直前の場所で25回目の優勝を遂げていた横綱の突然すぎる退場だった。

いささか深読みをすれば、この厳しい結末は、朝青龍大鵬の32回という通算優勝記録を破る可能性が低くなかったことと無関係ではないだろう。日本の相撲の「聖なる記録」をモンゴル人に破られたくないという、無意識の排外的感覚が発動された結果だとも解釈できる。

白鵬が味わった人種差別

大鵬の通算優勝記録はその後、同じモンゴル人の白鵬が破った(現在まで37回優勝)。しかし、その白鵬も外国人力士として苦汁をなめた経験が何度もある。代表的な2つの出来事には、どちらも稀勢の里がからんでいる。

2013年11月場所の14日目。ここまで全勝の白鵬は、稀勢の里と対戦した。2人は仕切りの際に、何度も仁王立ちしたまま激しくにらみ合った。

取り組みは力のこもった投げの打ち合いの末、稀勢の里が上手投げで勝つ。すると、予期せぬことが起こった。館内を埋め尽くした7000人近い観客が万歳三唱を始めたのだ。その回数は10度に及んだという。

〈場内からは期せずして「万歳」コール。異様な雰囲気に包まれた。日本人大関横綱連覇を喜んだのか、見応えのある相撲への称賛か──〉と、毎日新聞は報じている。

白鵬はこの万歳三唱が悔しく、「自分がやってきたことは何だったのか」と師匠の宮城野親方にもらしたという。2011年に八百長問題で相撲界が大揺れだったときも、支えたのはそのとき一人横綱をつとめ7連覇さえ成し遂げた自分だという思いもあっただろう。

もうひとつの出来事は、2015年1月場所。白鵬大鵬通算記録を抜く33度目の優勝を全勝で飾った。だが千秋楽から一夜明けて行われた記者会見で、優勝を決めた13日目の稀勢の里戦が取り直しになったことについて審判部を批判した。

「子供が見ても(自分の勝ちだと)わかるような相撲なんでね。なぜ取り直しになったのか。……本当に肌の色は関係ないんだよね。まげを結って土俵に上がれば日本の魂なんですよ。みんな同じ人間です」

「肌の色は関係ない」という言葉には、相撲界に日常的な人種差別があるという含みがある。審判部を批判したことは厳しい意見にさらされたが、「肌の色」発言は日ごろの思いが口をついて出たと受け取るのが自然だろう。

朝青龍の「品格」が問題視されていた時代や、白鵬をめぐって小さくはない衝突が起きていた場所に比べれば、今場所はなんと平和なことだろう。

稀勢の里が新横綱として活躍し、白鵬をはじめとしてモンゴル人横綱に衰えも感じられる今、多くのファンにとっては相撲のあるべき姿が戻ってきたように思えるかもしれない。

この安心感は、あまり大きな声で表明されることはない。メディアも日本人と外国人という区分けには触れないようにしている節がある。一歩まちがえると差別的と受け取られかねないからだろう。

しかし今場所も10日目になって、この安心感をテレビではっきりと口にした人がいた。NHK大相撲中継に解説者として出演していた元横綱北の富士だ。

この手の「正直」な発言をときおりする北の富士だが、今回はこう語った。

「モンゴル勢横綱の陰に日本人が隠れて、寂しい時代が続きましたけどね。ようやくこうして稀勢の里横綱になり、高安も出てきて、よくなりましたね」

「寂しい時代」という表現は言いすぎだとしても、「日本の相撲が日本人の手に返ってきた」ことを素直に喜んでいることばだ。今の空気を代弁したものと考えて、あながちまちがいではないだろう。

幕内力士の3分の1が外国人

最近の大相撲にみえるもうひとつの流れは、北の富士が名前をあげた高安をはじめ、御嶽海(みたけうみ)や宇良など、日本出身の有望な若手力士が目立ってきたことだ。

とくに今場所で初日から10連勝した高安には、「次の横綱か」という、やや気が早いとも思える声さえ出ていた。

だが、ここであえて書くなら、高安と御嶽海はいずれもフィリピン人の母親を持つハーフだ。

もちろん、2人は「日本人」である。しかし、このあたりを突き詰めていくと、「日本人力士」だとか「日本出身力士」といった線引きが、なんともあいまいなものに思えてこないだろうか。あるいは「モンゴル出身横綱ばかりでは寂しい」といった見方が、どうでもいいものに感じられないだろうか。

大相撲の国際化は、もう押し戻せない流れだ。今場所の幕内力士42人のうち、外国出身者は14人いる。割合にして33.3%。日本の「国技」と言いながらも、トップにいる力士の3分の1は外国人なのだ。

この数字を、たとえばアメリカの国技と言っていい野球と比べてみる。最高峰のメジャーリーグには日本人選手も数多く進出しているが、昨シーズン開幕時の登録選手のうち27.5%が外国生まれだった。

中南米やアジアから選手が大挙して流入しているイメージのあるメジャーリーグだが、すでに大相撲のほうが国際化は進んでいることになる。

こんなふうに考えることはできないだろうか。

相撲、いや「sumo」というスポーツで、世界トップのプロリーグが日本にはある。いわば、野球でいうアメリカであり、サッカーでいうイングランドだ。その日本の「sumo」のトーナメントでは、まだ日本人選手が7割近くを占めており、国別にみれば最も多い……。

「日本出身横綱」だという理由で、稀勢の里を注目するようになった人は多いはずだ。広がっている「稀勢の里ナショナリズム」が、多くの日本人に安心感を与えていることも確かだろう。

だがそれは、あくまで土俵のまわりだけに漂う静かで罪のないナショナリズムだ。私たちがオリンピックを見るときに、なぜか日本人選手を応援してしまうのと似ているかもしれない。

もっとも稀勢の里自身は、自分が「何年ぶりの日本出身横綱」だなどとは考えたこともないはずだが。

横綱として臨んだ今場所の成績がどうなろうと、すでに稀勢の里は大きな功績を残している。それは次に日本出身力士が横綱に昇進するときに、「○年ぶりの日本出身横綱」というフレーズがニュースにならないようにしたことだ。

稀勢の里には、これから息の長い活躍を期待したい──「日本出身横綱」としてではなく、美しく強い横綱として。   

森田 浩之(ジャーナリスト)

2017/03/26    現代ジャーナル