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舒明天皇最初の墓?蘇我蝦夷? 未知の古墳、見立て様々

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段ノ塚古墳舒明天皇陵)で確認された榛原石の石積み=大阪府立近つ飛鳥博物館刊「ふたつの飛鳥の終末期古墳」から、同館提供(原板宮内庁書陵部

 奈良県明日香(あすか)村の小山田(こやまだ)遺跡から現れた未知の巨大遺構。50メートル以上の石張りの掘割は、舒明(じょめい)天皇が最初に葬られた墓(初葬地)の一部なのか。ただ被葬者像には当時の権力者、蘇我蝦夷(えみし)の名前も挙がり、識者の見立ては様々だ。

 奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)によると、奈良県東部産の「榛原(はいばら)石(いし)」で墳丘を覆う古墳が造られたのは、7世紀中ごろに限られる。この時期に没し、蘇我馬子(うまこ)の墓とされる石舞台古墳(一辺約50メートル)を上回る墓を築ける人物として、舒明天皇(641年没)の名前が浮上したという。

 日本書紀によると、舒明の遺体は642年12月に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られ、その9カ月後に「押坂陵(おしさかのみささぎ)」に改葬された。押坂陵は、宮内庁が舒明天皇陵に指定する段ノ塚古墳奈良県桜井市)が確実視されている。古墳天皇家の墓に特有な八角形墳で、段ノ塚古墳がその最初。一方、滑谷岡は明日香村東南部の山中とされるが、該当する古墳は不明だった。

2015年1月15日21時47分 朝日新聞

 

奈良・明日香村に新たな古墳か 石張りの巨大な掘割発掘

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約50メートルにわたって石材を張り付けた掘割=昨年12月24日、奈良県明日香村、朝日新聞社ヘリから、高橋一徳撮影

 奈良県明日香(あすか)村川原(かわはら)の小山田(こやまだ)遺跡で、約50メートルにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が15日発表した。7世紀中ごろに築かれた未知の古墳の一部とみて、規模や立地、特異な構造から、大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのみこ、天智天皇)や壬申(じんしん)の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)の父、舒明(じょめい)天皇(593~641)が最初に葬られた場所との見方を明らかにした。

 これまで小山田遺跡では木簡のほか、目立った遺構は出土していなかった。県立明日香養護学校の 校舎建て替えに伴う発掘で、東西方向に幅7~3・9メートル、長さ約48メートルの掘割を確認。北側斜面は40センチ大の石英閃緑岩(せんりょくがん)を 張り、底面は15~30センチの石材を敷き詰めていた。南側斜面は2段目まで緑色の結晶片岩(緑泥〈りょくでい〉片岩)の板石を積み、その上に「榛原石 (はいばらいし)」と呼ばれる奈良県東部産の特殊な板石を階段状に積み上げ、最高10段の板石積みが残っていた。

 橿考研は、遺構は古墳の掘割(濠〈ほり〉)にあたるとみて、墳丘裾部は大豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(一辺約50メートル)を上回る一辺50~80メートル程度の方形だったと推定。墳丘はすでに失われているものの、板石が裾部の表面を飾った可能性が高いとみる。

2015年1月15日18時37分 朝日新聞

 

石舞台古墳しのぐ規模「舒明天皇」の滑谷岡陵か 「蝦夷の墓」説の研究者も 小山田遺跡

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奈良県明日香村・小山田遺跡で出土した飛鳥時代の遺構=奈良県明日香村(甘利慈撮影)

 奈良県明日香村川原の小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)の巨大な古墳の墳丘の一部と濠(ほり)跡が見つかり15日、橿原考古 学研究所(橿考研)が発表した。一辺50メートル以上の方墳と推定され、蘇我馬子(そがの・うまこ)の墓といわれる石舞台古墳を上回り、飛鳥時代最大級の 規模。榛原石(はいばらいし)と呼ばれる薄茶色の室生(むろう)安山岩の切石で装飾されており、橿考研は規模や築造時期などから第34代の舒明(じょめ い)天皇の初葬墓(しょそうぼ、改葬前の墓)で、日本書紀に登場する滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみている。

 ただ、発掘場所が大豪族・蘇我氏の邸宅があった甘樫丘(あまかしのおか)に近く、蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の墓として日本書紀に登場する双墓(ならびのはか)のうちの蝦夷の大陵(おおみささぎ)と考える研究者もおり今後議論を呼びそうだ。

  濠は墳丘北側で東西方向に直線状に延び、長さ約48メートル、上部の幅約7メートル、深さ約1・2メートル。底部と北側斜面は川原石で石貼りが施されてい た。南側では、板石状の榛原石の切石(長さ30~40センチ、幅約30センチ、厚さ約5センチ)などを階段状に積んだ墳丘の一部(計10段分)が見つかっ た。

 遺構の状況や付近の地形などから、古墳は馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50メートルの方墳)より大きい一辺50メートル以上の方墳で、下段部が榛原石で装飾されていたとみられる。見つかった土器などから築造時期は7世紀中頃とみられる。

 現場は甘樫丘の南端で、西から東西に延びる丘陵の東端部。この丘陵には欽明(きんめい)天皇の墓とされる丸山古墳推古天皇の初葬墓の植山古墳があり、当時の天皇の墓域とも推定されている。

 日本書紀によれば舒明天皇は641年に崩御。翌年、飛鳥地域の「滑谷岡」に埋葬され、崩御から2年後の643年に押坂陵=おしさかのみささぎ=(宮内庁舒明天皇陵に指定する桜井市の段ノ塚=だんのづか=古墳)に改葬された。

  これまで滑谷岡の場所は謎だったが、橿考研は(1)方墳が巨大で天皇陵にふさわしい(2)舒明天皇の没年と築造時期がほぼ一致する(3)段ノ塚古墳にも榛 原石の石積みがあり、方墳と共通点がある-ことなどから、方墳が見つかった場所が日本書紀に記された滑谷岡で、方墳は改葬前の舒明天皇の初葬墓の滑谷岡陵 の可能性が高いとみている。

 菅谷文則・橿考研所長(考古学)は「石舞台古墳より大きい古墳が見つかり、驚いている。舒明天皇の滑谷岡陵の可能性が高く、日本の歴史を考える上で大きな意義のある発見だ」としている。

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 現地説明会は18日午前10時~午後4時。問い合わせは橿考研((電)0744・24・1101)。

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  舒明天皇 在位629~641年の第34代天皇。子に天智(中大兄皇子)、天武天皇。真神原(まかみはら)と呼ばれる聖地・飛鳥(盆地)に初めて岡本宮を 営み、百済(くだら)宮や百済大寺を造営。630年に第1回遣唐使を派遣するなど外交にも力を入れた。天皇のシンボルの八角形墳を最初に陵墓に採用した。

2015.1.15 18:10 産経WEST

 

明日香で東西50mの濠出土、舒明天皇の墓か

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巨大な方墳の北辺とみられる濠。左側が墳丘の裾にあたるとみられる。石がない部分は旧校舎の基礎工事で壊されていた(奈良県明日香村で)=若杉和希撮影

 奈良県明日香村の県立明日香養護学校敷地内で、7世紀中頃の方墳の一部とみられる石敷きのほりが東西50メートルにわたって出土し、県立橿原考古学研究所が15日発表した。

 当時の飛鳥地域では、蘇我馬子そがのうまこの墓とされる石舞台古墳(7世紀前半)を超える最大の方墳とみられ、同研究所は中大兄皇子なかのおおえのみこ天智天皇)の父、舒明じょめい天皇の改葬される前の墓の可能性が高いとしている。

 濠は幅3・9メートル、深さ1メートルが確認された。北側の斜面と底に花こう岩が敷かれていた。墳丘の裾とみられる南側斜面に、種類や色が違う石を加工した板石が階段状に積み重ねられていた。

 日本書紀は、舒明天皇が「滑谷岡なめはざまのおか」に埋葬後、643年に同県桜井市の段ノ塚古墳と推定されている「押坂おしさか陵」に改葬されたと記しており、同研究所ではこの濠が「滑谷岡」の一部と見ている。一方、専門家の間には、馬子の息子の蝦夷えみしが自らのために築造した墓とみる意見もある。

2015年01月15日 20時58分 Copyright © The Yomiuri Shimbun